takam16の本の棚
です。バーチャルですが......

本棚を2ヶ月ぶりに整理&廃棄に汗をかく先週末だったのだが、
案外売り頃の本も出てくるものだなあと思った。
その数32冊はちと少ないか。というのも
「案外」というのは、自分は本のページによく書き込みや折り曲げをするクセ
があるため、所蔵本の多くが他人の手に渡ることがない、というよりはできないの
である。

逆に言うなら自分にとって綺麗な状態の本というものは、
なんの心にも残らず、気になる表現も見当たらずという意味にもあたる。
また、本を将来売ることを目的に腫れ物に触るようにページをめくる
という前提の読書では集中力が欠如してしまい、内容は二の次になる傾向がある。

よく友人には、
「綺麗に扱えばその後の副業にもなるのにもったいない。」

と注意されるのだが、書き込みグセは子供の頃からの習慣であるため、
どうしようもない。友人には

「へいへい。」

と軽くいなしているのだが、これからも同じことをたらたらと言ってくる
のだろう。ああ嫌だ。

さきほど言った「副業」というのは、つまりは

・新古書店への売却
・オークションへの出品

のことなのだが、自分にとっては本に関してはどうもご縁が薄いようである。

ところがである。
いざ本を買うという行為について本棚を整理しながら思ったのは、
購入本の半分以上をオークションでの落札に頼っていることに気が付いた。

自分の場合、例えば100冊の書籍を読んだとする。雑誌は含まない。
まず半分は図書館である。つまり50冊は無料(注:ここでは税金は含まない)で
本を読んでいるというわけだ。

問題は残り50冊の入手元である。
この50冊のうち20冊が新刊書店で購入する。
そのうち半分はネット書店、あとはリアル店舗である。
ネット書店で購入の多くを占めるのが、新書である。
1冊では送料を取られる。だから1500円以上を購入するために
無理にもう1冊足している感は否めない。

あとの30冊のうち、10冊がいわゆる新古書店というやつだ。
100円文庫がその中心を占めている。


そして、残りの20冊はすべてオークションによる落札であること
に気づき、その種類のほとんどは単行本の小説だ。

ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」や
東野圭吾の「容疑者Xの献身」、
奥田英朗の「サウスバウンド」、
津本陽の「覇王の夢」

といった本屋では平積みの対象になりやすい人気本が中心だ。
というのも、オークションではマイナーな本というのが数が少なく、
また落札者側の選択の幅が狭いというのがある。
その点人気本なら2桁の出品登録があるため、品定めがしやすい。
またコミックなどの場合、例えば
「キン肉マン全巻」「パタリロ発売全巻」
など、大人買いをするための用意がしっかりとできあがって
いるところも面白い。

ただ、変なセットメニューのような出品物もある。
例えば、司馬遼太郎作品の著名なもの数巻を出品してあることに魅力を
感じ、入札と気持ちが向きかけたのだが、「○○付」とある。
なんだと画面に目を近づけたところ

「バンダナ付」

だ。今年の1月に司馬遼太郎記念館を訪れたのだが、その時に
司馬遼太郎記念グッズなどのようなものが売店にあったのを思い
出した。絵葉書やらボールペンやら記念グッズとともにあったヤツ
のような気がする。そのために他の司馬作品出品物より若干高く見積もって
いるのだ。すると、かつて近所のダイエーでのパンチ焼き騒動を思い出す。
つまりはお好み焼きのことなのだが、それまでは350円(うる覚え)だった
パンチ焼きが、別の日に買いにきたところ、目玉焼きが勝手に付いてしかも
50円アップの400円になったのだ。
これに主婦連中が噛み付くことは避けられない。
あまりにもの不評と利益をあげる単純な商売に主婦連中は
「ノー」
を前面に押し出し、卵付きはもう買わないと拒否をした。
たまりかねた店側はさすがにせこかったと反省し、卵をつけるのを
やめた。しかもお好み焼きには卵が最初から入っているだろうに、
さらに卵でコレステロールの問題だと言ったか言わないかはわからないが、
ちょっぴりせこいのはこの司馬作品&バンダナでも感じた。

しかし、このオークションによる書籍出品。自分は本屋の出身であるにも
かかわらず、その安さと落札というエンタメに魅力がある。
そして出品物のほとんどは新品で買ったものを一度読んでの出品のため、
価格も定価の3分の2~4分の3に設定している。
落札品のすべてすこぶる見栄えがよいのだ。

以上の買い方から分析すると、takam16はいかにもアメリカ覇権主義的な
蔵書ではと想像される方もいて当然だ。この買い方では自分で見つけて買うと
いう本の楽しみが失われ、ベストセラー偏重型の弱肉強食の弱者を手に入れる
環境がない。
ではそのマイナー本はどこで見つけるかだが
先述したように、50冊中20冊は新刊書店でそのうち10冊はネット書店だ。
ということは、あとの10冊に「本探しの楽しみ」により見つけた
書がある。皮肉を言えば、たった10冊にしか「本探しの楽しみ」で
見つけた書がないということになる。


10月の第4日曜ごろに、毎年恒例の毎日新聞読書調査なるものがあるはずだ。
1ヶ月の読書冊数や1日の読書時間などをアンケート調査により紙面に発表する
内容なのだが、読書という行為に関しては、小中学校における朝の読書なるもの
の普及が著しく、読書人口は増加の方向に進むと予想される。
しかし、その入手経路は非常に多角的である。
新刊、古本、図書館、オークション、貸本屋、マンガ喫茶に加え、
携帯端末による電子書籍がグンと伸びている。
既存の出版業界はジリ貧だ。


新刊書店は巨大で品数の多い書店に人が集まるのは当然である。
一方、中小書店は店舗面積が狭く、品数に限りがある。
ある人がはじめて訪れた店にどうしようもない品しかなければ
その人は二度とその店に訪れることはないだろう。

ネット書店では発見というよりは、あらかじめアテのある本を検索
して購入する場合が多い。
オークションは遊び心ながらもこちらも事前に頭にある本を探し、落札
することがしばしばだ。
新古書店の前提はあくまでもリサイクルである。そして、在庫の仕入先が
限定されるため、店側が積極的に望む本を陳列しているとは限らない。

やはり衝撃的な出会いというものは、既存のリアル店舗が最もそれを演出
できるのではないかと改めて思った。
そのせいか、整理中に棚にある本のうち、既存の新刊書店で店内を探し歩いた
結果、購入した本は妙に汚らしくうつる。

たかが新刊書店。されど新刊書店。
そして頻繁に訪れることの意味。
人に与えられて購入した本と、自分で探し出して購入した本とでは
自分の本に対する扱いの違いをこの整理でつくづく思った週末でありました。