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takam16の本の棚
です。バーチャルですが......
自分の本棚を整理すると、どうしてもジャンルわけというものをしたくなってしまう。
コミックは自分の所蔵にはまったくなく、松本清張や司馬遼太郎作品は文庫ばかりだが、
量は多い。特に司馬作品には「竜馬がゆく」といった巻数モノや「関ヶ原」のような
上中下モノのおかげでそれだけで部屋の隅にコーナーを設けることも可能な状態である。
ジャンルに関していうと一番多いのは「戦争モノ」である。この「戦争モノ」とは
主に太平洋戦争前後を扱ったものや、戦争に関わった人物の話であり、
その入門書として、半藤一利氏の「昭和史」は何度も読みたい
1冊として、本棚の表紙をこちらに向けて目立つように陳列させてある。
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保阪正康氏の一連の書や先述の松本清張氏による「昭和史発掘」
なども本棚にちゃっかり収められている。これらは一応背表紙置きだ。
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本棚を眺めてつくづく感じることは、本棚からは自分の趣味や興味、悩みや過去がわかるもので、
同時に人を家に招くときにあまり見られたくない部分はトイレの汚れよりも冷蔵庫の中身よりも
本棚だということだ。
さてその「戦争モノ」が多めの本棚。ある子供に言わせると、軍事評論家は戦争が好きだから
評論をしているという直球勝負の意見に、「それはちと違う。」とバツの悪そうな顔で応える
評論家と同じく、takam16も戦争が好きだからそんな種類の本があるのでしょ?
と尋ねられると、
「それもちと違う」
と堂々と応えられるかというとそうでもない。いつのまにやら「戦争モノ」が増えて今日に至る
のだ。平和のために.... などと一般向けなコメントはよそう。
正直、「戦争モノ」の蔵書が多い方になぜとお聞きしたいぐらいである。
そんな蔵書であるが、よくよくチェックすると、日本人の考察による戦争話がほとんどである
ことに今さらながらに驚くと同時に、視野が狭いのかなと疑念に感じる自分がここにいる。
たった1冊を除いてだ。
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- チャールズ・W. スウィーニー, Charles W. Sweeney, 黒田 剛
- 私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した
元アメリカ空軍出身者で、太平洋戦争にも加わったチャールズ・W・スウィーニー氏による
自伝であるのだが、そのタイトルが
「私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した」
なのだから曲がった背筋がピンと伸びるのも無理はない。
この元軍人は、昭和20年8月6日にヒロシマの原爆投下の瞬間と爆発を目にし、
3日後の8月9日にはナガサキの原爆投下機の長としての職務を全うした男である。
本書はチャールズ・W・スウィーニー氏が原爆を投下するまでに歩んできた軍人としての
人生を語った伏線的意味合いの部分、そして原爆投下任務時とその前後も
含めた核心部分に分けて読んだ、というのも、読み始める前から興味の中心が原爆投下の自伝
にあったからである。それが前者の「伏線的意味合い」と強く感じざるを得ないのであるが、
のちに配属となる部隊発足のそもそものきっかけは、
アインシュタインのルーズベルト大統領に宛てた次の一文
ドイツが想像を絶する破壊力を持つ爆弾を開発する能力と資源を持っており、
そのような兵器を保有する国が世界を支配するであろう
である。
つまりは原子爆弾を先に造った国の勝ちというわけだ。
その爆弾を搭載し、投下する訓練の苦悩を赤裸々に語っているのだが、当初は
原子爆弾は極秘に開発されており、また原爆投下作戦も同じく極秘であり、それが
いつ、どのような形で使用されるのかも机上の世界であったために、
著者は配属されたユタ州での輸送機の指揮の任務や爆撃機の任務の意味合い
がさっぱりわからない空想の世界として日々の訓練を行うことになる。
これらの計画は「マンハッタン計画」そして「アルバータ計画」と呼ばれたのだが、
その原爆開発&投下計画を知らされた著者が将来ヒロシマ、ナガサキに落とす原爆機
が出発するテニアン島に移動してからが自分にとっての読みどころである。
原爆投下の候補地は4つあったようだ。
広島...アメリカ軍上陸に対する防衛組織がある
小倉...強大な軍備を持つ地
長崎...兵器工場&魚雷工場がある
新潟...軍事施設の存在
実は京都も当初はターゲットの1つになるらしかったが、
「文化的・宗教的建造物の数々は日本の大切な財産である」
という上層部の見解ですぐに候補から外されたそうだ。
4つのうちまず新潟が消去されたのは、地理的要因に尽きる。飛行距離が他より
長くなってしまうということだ。
結果、優先順位は
①広島 ②小倉 ③長崎。
*8月9日は小倉投下が目標も視界悪く、投下直前で長崎に変更
また、
原爆を載せたB-29戦闘機を9000mの上空から投下後、43秒で爆発する
ので、その間に放射能を浴びないために最低13キロ離れる必要がある。
という原則のもといざ決行となるのだが、著者はヒロシマにおいては帯同する機
から原爆投下を目に焼付け、
ナガサキにおいて任務の長として実行にあたる。
実はこのナガサキ投下に関しては、特に投下後の裏話は知る人ぞ知るのであろうが、
自分にははじめて知った話だったので、最も時間を割いて読んだ。
軽く触れると、投下後の燃料切れにまつわるエピソードである。
その他にもさまざまな著者とその周囲にまつわる裏話や原爆投下の
経緯について、316ページにわたり語られるのだが、
著者がこの本を出版するきっかけの最たるもの、それは
「歴史認識」
にほかならない。アメリカの歴史学者から原爆投下への疑問が投げかけられ、
多勢を占めつつあることに憤りを感じたまさに当事者である氏による
渾身の作品というわけである。
原爆を使用した理由。原爆でなければならない必要性。
その正当性は理論的というよりは感情的にも感じるが、70代にもなって、
自身の行為を否定されたこと、それは自身の存在を否定されたことともなる
のであろうか。
ただし、この本は
「アメリカの未来の世代に捧げた」本と著者は記している。
さすがに日本人に捧げるのはあまりにも酷な話であろう。
決して日本人が読後感良好などとはなれないのが正直な気持ちである。
あくまでも1人の軍人の回顧録として捉えるべきなのだろうが、
内容はやはり重い。
歴史というものは、勝者のためにあるものだと客観的に考えてきたが、
いざ自国の相手国の話を読むと、なかなか奇麗事では済まされない複雑な1冊
でありました。
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