takam16の本の棚
です。バーチャルですが......

第134回直木賞受賞候補作の発表は年明けの週末、
そして直木賞の最終選考会は1週間後の木曜日に行われ、
受賞者とその作品が発表される。
候補者のもとには12月の中旬までにはすでに封書か何かで
知らせが届いているはずだ。
候補作品の一般向けの発表が来年というだけのことだ。


当ブログでは10月より数回にわけて
「読んでもいないのに次期直木賞受賞作を推理する」
などと大それたタイトルで皆様にお付き合いいただいた。

「読んでもいないのに何がわかるのか?」
という意見が多々あるのは承知の上である。ならば逆に質問しよう。

「読んだら何かわかるのか?」

創作物というデリケートなシロモノを評価するのは機械ではない。
人間なのだ。しかもその人間はただの人間ではない。
「物書き」というこれまたデリケートな創作物を生み出す人間が評価
するのである。
よって、どれだけ感動を呼ぶ作品であろうと、どれだけ本屋で売れ筋と
言われようと、彼らの持つ主観がすべて優先される。
そして彼らの持つ主観は凡人の理解を超越したものだ。
過去にどれだけ優秀だと言われた作家が受賞を逃しているか、
世間にたっぷり認知された作品がどれだけ受賞できなかったか、
数えるだけ時間の無駄というわけだ。

凡人の理解を超越した主観を持つ彼ら、つまりは直木賞選考委員は
現在以下のメンバーで構成されている。

阿刀田高氏  70歳 1995年より選考委員
五木寛之氏  73歳 1978年より選考委員
井上ひさし氏 71歳 1982年より選考委員
北方謙三氏  58歳 2000年より選考委員
津本陽氏   76歳 1995年より選考委員 
林真理子氏  51歳 2000年より選考委員
平岩弓枝氏  73歳 1987年より選考委員 
宮城谷昌光氏 60歳 2000年より選考委員
渡辺淳一氏  72歳 1984年より選考委員  

直木賞にしばしば言われる問題点の1つは選考委員達の高齢化である。
実際、直木賞候補に名を連ねる作家はたまに20代や50代以上の年齢の方が
候補になることもあるが、多くは30代~40代に非常に多い。
それに比べて9名の選考委員のうち6名が70代である。
この点において、年齢にはもっとバラつきがあった方がよい。
歳がその人の評価のすべてとは毛頭思わないし、文学の世界が年齢とともに
蓄積される人生経験がゆえに深みのある世界を構築できることはまぎれもない
事実であろう。
しかし、昨今の情報化社会における急激な社会の変化のおかげで
世代間ギャップというものが日常生活にしばしば見られることを考えるならば、
文学作品においてはよりいっそう世代の違いゆえに生まれるギャップは甚だしい。
選考委員側が候補者側に積極的に心を開くのであればよいが、選考委員もそれぞれ
選考基準を持っているはずで、さらにその基準に変化はさほどない一方で彼らは
確実に歳をとっていくのだ。

「最近の若手作家は.....」

などという言葉が出る度にそれを感じてしまうのである。

そして選考委員の上記のの高齢化の手助けをしているのが、2つめの問題点である
「選考委員生涯現役制」だ。
4~5年に一度は選考委員の入れ替えは必要だ。
なのに、この制度では選考委員が辞退を申し出ない限り、死ぬまで選考をすると
いうわけだ。
短いものでは3名が2000年より選考委員をしているが、もう5年もやっている。
渡辺淳一氏は21年、井上ひさし氏は23年、そして五木寛之氏にいたっては
なんと27年間も選考委員の座にいるのだ。
はたしていつまでやるつもりなのか。
各選考委員には選考基準があり、当然ストーリーや文章の構成、候補者の個性に
好き嫌いが生まれるのは自然である。歴史や伝統は確かに大切だ。しかし
このあまりにも保守的な姿勢は新たなものを生み出す力の邪魔になりはしないだろうか。
いいかげん、ルールを変えたほうがよい。
これだから当ブログのように傾向や対策、データにこだわった推理が可能なのだ。
批判と同時にこの場でお礼も申し上げたい。

読んでもいないのに次期直木賞受賞作を推理したくなる理由はこの保守的ゆえに
生じる受賞パターンというものがあるからだ。
ただしそれを言うならば、最終選考委員よりは2次選考の文藝春秋社員に物申した方が
よいのかもしれない。

直木賞の選考過程を確認しておこう。

①関係者350人によるアンケート調査
↓
②文藝春秋社の社員数十名が下読み&議論し、評価し、候補作決定
↓
③海千山千の選考委員による2時間の議論・話し合いで受賞作決定


毎回5~7作品選ばれるのが一般的だが、ここ最近の傾向は7作品が選出される。
よって今回も7作品が候補作として選出されることを前提に話を進めていく。
現状では候補作予想である理由から
②の2次選考委員の腹の中を予想しながら考えていきたい。

まずは7作品をどう出版社別に振り分けるかだ。
上記の直木賞選考過程の①と②はクセ者だ。

アンケートや投票のみなら正しい数字が出るも、議論や評価までに物事が及ぶと
特に②の文藝春秋社員の存在が腑に落ちない。
出版社が主催する賞ならば、自分の出版社の作品にできるだけ有利になるように
仕向けることなど簡単だ。
過去の直木賞候補作においても、前回は7候補中3候補、前々回も7候補中3候補
が文藝春秋社の作品だ。
よって今回も3候補を文藝春秋社、あとの4つを他出版社と推理する。
まずは文藝春秋社の候補作予想を行う。

文 藝 春 秋
作品名 作家名 出版社
死神の精度 伊坂幸太郎 文藝春秋
一枚摺屋 城野隆 文藝春秋
ハルカ・エイティ 姫野カオルコ 文藝春秋
凸凹デイズ 山本幸久 文藝春秋
漆黒泉 森福都 文藝春秋
容疑者Xの献身 東野圭吾 文藝春秋
その文藝春秋社刊の作品、最有力候補作は 伊坂幸太郎氏 「死神の精度」だ。
伊坂 幸太郎
死神の精度
候補実績は129回の初選出から数え、過去5回中3回選出されている。 新潮社の「重力ピエロ」 → 講談社の「チルドレン」 → 角川書店の「グラスホッパー」 そして今回、満を持しての文藝春秋社からの出版だ。 実は同じく、講談社からは「魔王」という作品も出版されている。
伊坂 幸太郎
魔王
どちらが選出されるかに議論の余地は残すが、講談社の「魔王」は同出版社の「チルドレン」と同じく 雑誌「エソラ」に掲載されたものの書籍化だ。この場合、同じ系統から選出するよりは 別の系統から選出する場合がなぜか多い。ましてや今回は身内の文藝春秋社だ。 「魔王」で選出されれば、文藝春秋枠が1つ空き、他の新鋭作家にもチャンスが訪れる意味では いいのだが、文藝春秋社としては伊坂幸太郎ブランドを我が物にしたいのだ。 なぜなら、伊坂氏はライバルの新潮社がこの世にデビューさせた作家だ。 ここで伊坂幸太郎を受賞させねば、来年の新潮社側の山本周五郎賞で「魔王」が大賞を 獲りかねない。ここは新潮社側との駆け引きだ。 文藝春秋社員である2次選考委員にとっては伊坂氏デビューの恩人新潮社に恥をかかせる チャンスだ。 伊坂氏が直木賞を獲ってしまえば、山本賞側は伊坂氏に賞を獲らせることができなくなる。 過去3度の落選は他の出版社だ。気にはならない。 しかし「死神の精度」は文藝春秋社刊の作品なのだ。 ここは是非とも伊坂氏を我が社が誇る直木賞にさせたいと願うのは自然だろう。 あとは最終選考委員達のデリケートな琴線にふれさせることができるかの問題である。 しかしながら上の予想とはまったく逆の話になるが、所詮伊坂幸太郎は自分達が育て上げた作家 ではないという派がいても当然である。数十名の2次選考委員にそれぞれ意見というものもある だろう。 これについては過去の傾向に基づく話で以前にも触れたが、 「文藝春秋社は直木賞候補として初選出された出版社が自分の出版社でなければ冷たい。」 というデータがある。 伊坂幸太郎氏の直木賞初選出作品は新潮社だ。 「初選出が新潮社の場合、直木賞作家になれない確率 82、3% (該当は17つ)」 他の出版社も挙げると 初選出が角川書店の場合  同じく 85.7 % (該当は7つ) 初選出が幻冬舎の場合   同じく 100 %  (該当は3つのみ) 初選出が集英社の場合   同じく 58.3%  (該当は12) 初選出が講談社の場合   同じく 33.3% (該当は18) 初選出が文藝春秋の場合  同じく 43.8% (該当は32) 。 また、初選出が新潮社で受賞作品が文藝春秋社の場合は20年間で 海老沢泰久氏1人しかいない。 つまりこういうことだ。 文藝春秋社には彼らの編集方針があり、新潮社などには彼らの編集方針がある。 だから書き方や構成が違う場合もある。 そのうえで最終選考委員は何十年経っても同じ選考委員なのだ。 彼らはよく1人の作家を点として捉えるのではなく、線として捉えようとする。 前作との比較をした結果、最終選考委員が受賞を見送ることは選評等を拝読すると 非常に多い。 一方でいろいろな出版社で候補作になると、作品というものは作家と出版編集者 が二人三脚で創り上げるわけだから、作品の姿勢がコロコロと変わりやすい。 そこで作家の評価が前回の作品より上がったり下がったりするのだ。 ましてや、作品の多くは文芸雑誌の連載を経たものが実に多い。 本としての出版は今でも、実際は2~3年前より執筆したものがようやく終了した ことで、次に本というパッケージにし、商業出版として売り出すための、 そして執筆時と出版時の数年間の空白を埋めるべく本の最後によく見るコメントで ある加筆や修正という作業を行うのだ。 従って、出版時期がそのまま作家の執筆した順番に比例するわけではない。 現に「死神の精度」は平成16年度の日本推理作家協会短篇賞を受賞しており、 この賞の対象期間は前年の1年間、つまりは平成15年に執筆した作品なのだ。 けっこう古い作品である。 そして、同じ出版社かつ同じ編集者で選出された方が作家の伸びや成長ははっきりする。 さらにはそれが身内の文藝春秋社ならなおさらだ。 そこで、文藝春秋社は可能性の高い別の作家に気を配ることを考える。 その1番手が 姫野カオルコ氏の「ハルカ・エイティ」である。
姫野 カオルコ
ハルカ・エイティ
2年半、新たな商業出版のなかった姫野氏の復帰第一作というとおおげさかも しれないが、彼女の直木賞候補歴を記すと 117回 文藝春秋 「受難」 130回 角川書店 「ツ、イ、ラ、ク」   今回 文藝春秋 「ハルカ・エイティ」??? 文藝春秋社は自分の出版社から候補作を出したのであれば、一定条件のもと、 再選出の面倒を見てくれる。 そして、55%以上の割合で文藝春秋社が初選出の場合は文藝春秋社で受賞できるのだ。 その一定の条件とは、 「候補作として文藝春秋社から選ぶのは2度まで。」 最近20年間では角田光代氏、朱川湊人氏、奥田秀朗氏、藤田宜長氏、なかにし礼氏、 笹倉明氏、高橋義夫氏が文藝春秋社2度目の選出で見事受賞を果している。 姫野氏はまさしくこのパターンだ。久々の出版が文藝春秋社というのも説得力がある。 ただし、この2度目のチャンスをものにできなかった場合、文藝春秋社は最近20年間 では面倒を見てくれない。 文藝春秋社によりで2度候補になりながら、 受賞できなかった作家が直木賞を獲得する確率は 過去20年間に限定すると、22%、 過去10年間では     0% 過去5年間でも      0% 横山秀夫氏、東野圭吾氏、宇江佐真理氏、馳星周氏、黒川博行氏、 小嵐級八郎氏、東郷隆氏、今井泉氏、山口洋子氏 はこの罠にはまった作家達である。 姫野カオルコ氏が候補作になると予想する今回、彼女にとっては 事実上最後のチャンスである。 さて、文藝春秋社第3の候補作を考えるならそれは 城野隆氏の 「一枚摺屋」 になるであろう。
城野 隆
一枚摺屋
最終選考委員の平岩弓枝氏が前回の選評において時代小説の衰退に憂えているのだ。 こういう「お神」の声を2次選考委員は無視するわけにはいかない。 しかしながら、聞き覚えのない彼がなぜという疑問が生じる。無理もないだろう。 その答えに次のように応える事ができるだろう。 132回直木賞候補  山本兼一  「火天の城」 132回直木賞候補  岩井三四二 「十楽の夢」 120回直木賞候補  横山秀夫  「陰の季節」 この3人の作家に共通するのは、松本清張賞受賞作家である点だ。 松本清張賞の対象は「ジャンルを問わぬ良質の長篇エンターテインメント」である。 受賞歴で直木賞候補者・候補作を推理するのはしばしばあるパターンであるが、 この松本賞、実は文藝春秋社による文学賞なのである。その証拠に 山本氏と横山氏の2人は松本賞受賞作品がそのまま直木賞候補作となっている。 これに時代小説衰退を憂える選考委員の選評を読むと 城野隆氏はそのままダイレクトに直木賞候補に名乗りをあげるのに十分だ。 つまり、松本清張賞は直木賞候補作になるためのステップレースであるといえる。 つづく....