takam16の本の棚
です。バーチャルですが......

生きている人間に必ずあるもの、

過去、現在、未来。

その中で過去と未来は人の生きた年齢に関係する。
歳を重ねるにつれ、人は過去の量が増加し、未来の量が減少する。
過去という量は年齢という数に比例する。
一方で、未来という量は年齢という数に反比例する。


本来であればこれがスジなのであろうが、日本に関して言えば、
この定説がずっと以前から崩れているようだ。
例えば若者の自殺者が非常に多い。
それは未来に希望が持てないことが理由の1つと言われている。
若いのに未来が小さいという矛盾である。
しかし、希望が持てないことがすぐに「死」につながってしまうという
発想はやはり訝しげに見てしまうが、それは彼らの問題というよりは、
周囲の問題、社会の問題と考える方がよさそうだ。
自殺をするという行為ではなく、自殺をしたいという思考の背景を探らな
ければ、この流れは止めようがない。そして自殺をしたいという発想が
浮かんだ時点で彼らの心はすでに八方ふさがりの状態だ。
誰かの手助けがなければ実行にうつすのはきわめて早い。
自殺をした人間を、自殺をした本人に問題があるという論調を耳にするが、
それはまさにいまハヤリの「自己責任」という言葉の負の部分であるだろう。

戦争を経験した国ゆえにしばしば比較される平和という言葉。
しかし平和であるからこそもっと考えたい「命の大切さ」が大変希薄であるのが
今の日本という国なのか。

だからこそ大切にしたいもうひとつ、
年齢にかかわらず、常に数量が変わらないもの、
それが現在である。

しかしながら現在は過去や未来に非常に左右されやすい微妙な位置づけである。
現在は過去や未来を十分に背負って存在する。言い換えれば、過去や未来なしに現在は
成立しない。そしてそれらのバランスの良し悪しが現在を決定するのである。
今そのバランスが崩れている。
人は多いもの、つまりは多数決が正しい、安心と解釈しがちなため、
例えば崩れたバランスを持つ者が多ければ多いほど伝播しやすいのだ。
オレもオレも、ワタシもワタシも。
幼女の誘拐や母親による子供の虐待などは同じことをする人間が多いとつい
安心してしまい、みんなもやっているから自分もという流れをつくりやすい。



人間にモレなくつく過去、現在、未来。
特に過去を陰部と位置づけるとちょっとしたミステリーができるというわけで
そういう作品はただいま垂れ流しのように乱発している。
だからであろうか、それらを明るく描いた物語に希少価値があると思い、
出会いを望んでいたのであるが、最近そういう本を読む機会に恵まれた。

姫野 カオルコ
ハルカ・エイティ
粋なナイルグリーンのスーツを着て、"パリコレ"の会場を歩くモデルのように背筋を まっすぐにして歩く、褐色の髪をボブカットにした大正9年生まれの女性。 大正9年生まれだと今は85だ。世間の80代のバアさんを想像してもらいたい。 親戚、知人にいるならぜひ思い浮かべてもらいたい。 その姿、風貌は見る側にとって彼女の現在の姿である。 腰は曲がっているだろうか、白髪はひときわ目立つだろうか。 先述の定説に照らしあわせるなら、彼女は過去をたくさん持っており、残念ながら 未来は少ない。 ところが、 粋なナイルグリーンのスーツを着て、"パリコレ"の会場を歩くモデルのように背筋を まっすぐにして歩く、褐色の髪をボブカットにした大正9年生まれの女性。 なのだ。このような女性の生き様、つまりは過去を紐解いてみたいとは 思わないだろうか。 年齢と過去や未来の関連性を疑ってみたいとは思わないだろうか。 実は本書は 「実在の人間の、戦場での体験をはじめ、事実をもとにした小説」。 つまり、著者である姫野カオルコ氏の伯母をモデルにした自伝的小説だ。 名はハルカ、歳は本書では81になる。  第1章 ハルカ 80  第2章 少女  第3章 女学生  第4章 花嫁  第5章 姑  第6章 若奥様  第7章 母  第8章 女教師  第9章 人妻 第10章 娘 第11章 娘・その二 第12章 恋人 第1章では小学館発売のマンガ雑誌ヤングサンデーのグラビア取材ということで 取材者側が80の老婆という先入観を持ってハルカと対面する時の様を描いている。 それよりも、なぜ男性読者に支えられるこの雑誌に老婆が必要かという問題の方に 興味が沸く。まあそんなことはいいじゃないか。 てっきり老婆が待っていると思った取材者側、しかしそこに待っていたのが 粋なナイルグリーンのスーツを着て、"パリコレ"の会場を歩くモデルのように背筋を まっすぐにして歩く、褐色の髪をボブカットにした大正9年生まれの女性。 ハルカの生まれた時代に話がうつる。これより物語のはじまりである。 以上の章ごとのタイトルを点とし、点と点を結び、線で捉えることでハルカの 成長物語ができあがっている。実にストレートな路線だ。 2章から12章のタイトルを見ると 「おや?」と思われる方も多いだろう。 現在の女性の人生経験過程といえば 少女 → 学生 → 恋愛(女) → 仕事 → 花嫁 → 若奥様 → 姑 → 母 → .... 仕事は恋愛(女)の前かもしれないし、花嫁になっても仕事は続けるかもしれない。 ところが主人公のハルカはどうだ。 ①少女 → ②女学生 → ③花嫁 → ④姑 → ⑤若奥様 → ⑥母 → ⑦女教師              → ⑧人妻 → ⑨娘 → ⑩恋人 女学生のあと、いきなり花嫁と来ている。つまりは見合いだ。 この時代に生まれた者には恋愛の自由は限られていた。女性ならばなおさらの ことである。女性の社会進出は限りなくゼロに近い時代なのだ。 (女性の社会進出といえばは教師ぐらいなもので、実際ハルカは花嫁になるまでの 1年間教師の職に就いている) 次に注意したいのが、花嫁になったあと、事実上の若奥様となるのにしばしの空白があることだ。 ここでは間に姑が入っているのだが、この答えは簡単だ。 大正生まれの女性が花嫁になる時期がまさにポイントであり、ハルカの場合は彼女が20歳の時 だった。それは1940年、日本が戦争を始める1年前の出来事だ。 大正生まれの女性の結婚時期は必ず日本の戦争の時期と前後するのだ。 形だけの結婚を終えれば、男は次々に戦場に駆り出される。 そして、多くの女性はこの戦争で夫を失ってしまうのだ。 よって、ハルカの生きた時代を過去や未来をもとに考えると、彼女が成長するに連れて戦争という 出来事で未来が閉ざされてしまう時代だったのだ。 また、戦争という行為は人が必ずあるはずの未来や過去まで奪ってしまう。 よって、過去と未来のバランスや、それに支えられた現在などお話にもならない。 戦争を生きる時代、それは当時の日本においては今を生きるしかない時代だった。 ハルカの場合、夫は戦時中のケガで日本に戻ってきたことがかえって夫婦生活をスタートさせる という幸運だったのだが、女学生、見合い、結婚、そして出産という 順序を歩んだハルカに欠如していた人生経験、それは恋愛、つまり「女」の経験であった。 これも当時の日本と戦争が生んだ産物だ。 そこで、家庭の事情から女教師として働き始めたことがきっかけで別の男との恋仲を経験する ことになる。これが9章の人妻だ。そしてきっかけは第8章の女教師。 浮気や不倫がよいか悪いかの問題はひとまず棚に上げ、ハルカ、遅ればせながらの恋愛である。 しかし、恋というものは自らの若さを周囲にアピールする絶好の方法であろう。 ただし、決して浮気や不倫で夫婦関係に終止符が打たれることがなかった点にも注目したい。 実はハルカの夫の浮気が先である。しかもいろいろな女性と愛を育んでいる。 おまけに相手の女性がウチに乗り込んできたこともあった。 しかし、ハルカは決して感情をあらわにしない。夫にもなにもいわない。 なにもなかったかのように振舞う、あるいは振舞うフリをするのである。 そのうえで自分も別の男に恋をしてしまう。 そして自身の色恋経験により夫の気持ちもなんだかわかるということを前向きに学んでいるのが 面白い。その後も母としてのハルカやさらに歳を重ねていくハルカの話と続くのだが、 最終章の恋人。これまたすばらしい。人生の晩年に恋人だ。いいじゃないか。 このように紆余曲折の人生経験をインクに映し出し、しかも明るく軽やかに仕上げたのが 本書というわけだ。そして、各章のタイトルだけである程度の想像がつくというのもよい。 この物語が決してミステリーや犯人探しをテーマにしていないことが容易に想像でき、 その上で読んでみたいと思わせる。 「ハルカ・エイティ」は当時の人生経験の主なシーンをピックアップする形で描かれ、 それを 少女、女学生、花嫁....などと大きな枠として章立てる形をとる。 しかし、当時のハルカの人生を描くだけでは、それはその時代を生きた読者にしか伝わらない。 そこで姫野氏は次の点に注意したという。 ・若い人が読んで、この時代の話は今と違う別の世界のできごとだと思わないように工夫した ・読んだ人が嫌な気分にならないように工夫した その上で、本を読むのが大好きという人よりは読書はいくつかある趣味のうちのひとつです というような人をイメージして書いたつもりだ 文中にはハルカの生きた時代に同時に当時の社会情勢を織り交ぜながら描かれている。 戦争描写においては女、子供、年寄りはいうならば留守番だった。 彼女達は本土でアメリカの空から恐怖を肌で感じるハメになった。 B29、空襲、警報などの言葉が戦時中の時代描写に連発する。 これは戦った者の言葉ではなく、ただ下から見上げるしかなかった者が体験するのに使う言葉だ。 時代が進むと美空ひばりが塩酸をかけられた事件や佐藤栄作などの首相の話も出てくる。 時代を知る人々に向けられた配慮の1つである。 また、内田恭子(フジテレビアナウンサー)、根本はるみ(グラビアアイドル)などの固有名詞を出す ことで若者にも向けられている。特に若者に当時を伝える意味で恋愛や結婚、妊娠にまつわる 色恋ネタの比較描写は頻繁だ。おまけに女性の気持ちと男性の気持ちの比較描写もちゃっかり 文中に含まれており、老若男女の世代間、男女間という埋めようのないギャップの埋め合わせへの 挑戦も伺える。 ならば、戦争を決して知らないはずの姫野カオルコ氏がなぜ経験のない戦争にからむ話を書く 必要があったのかに興味が及ぶ。 その回答は文藝春秋社のPR雑誌「本の話 11月号」に載っている。 著者は両親が晩婚だった。 同級生の両親は若いぶん戦争中に子供だった人が多い一方、両親は戦時中は父が軍人だった。 だから、我が家にだけ戦争の影が暗く立ち込めている。 でも、その影をみつめてはいけないといったようなものも立ち込めている。 それがすごく苦しい。 だから戦争の落とした影を書こうと思った、 それが 「ハルカ・エイティ」であると。 そして 「読んだ人が嫌な気分にならないように工夫した」 というのはまさに、本書のモデルである主人公、それは同時に姫野カオルコ氏の伯母の生き方であり、 ハルカの最も魅力的な生き方は、 今現在を大切に生きること に尽きる。選択の余地のない結婚をした。戦争という重苦しさを経験した。夫の浮気もあったし、 自分も別の男に恋をした。歳を重ねる後半部分では確かに過去にあんなことが、こんなことがあった といろいろ回顧してしまう箇所もある。 しかし、なによりも今現在を大切に生きる女性ハルカ。その証が 粋なナイルグリーンのスーツを着て、"パリコレ"の会場を歩くモデルのように背筋を まっすぐにして歩く、褐色の髪をボブカットにした大正9年生まれの女性。 である。なるほど、男性漫画雑誌ヤングサンデーのグラビアを飾っても悪くはなかろう。 また戦争の話も浮気の話もまったく重さを感じさせない。 それは主人公の使う関西弁のおかげだろうか.... いや、年齢に左右されない過去や未来に支配されないハルカの現在の描き方が そうさせるのではないのだろうか。 過去は背負いすぎてはならない。 だからといって未来を追いすぎてもよくない。 そのぶん今を大切に生きればよいのだ。それがちょうどいい。 戦争の落とした影を書こうと思ったという本来なら暗くなりがちのテーマを 「読んだ人が嫌な気分にならないように工夫した」著者の新作を たっぷり堪能していただきたい。 さて、本書の主人公ハルカ、つまりは著者の伯母について、 公式ホームページに記述があった。 実在のハルカさんにも声援をおくってくださった読者の方へ 文章からは著者の伯母への想い、本書への想いが伝わってくるのだが、 ぜひクリックして読んでいただきたい。 最近、近所の公園でひなたぼっこをしているおじいさん、おばあさんの生き様を 興味本位ながらもちょっぴり真剣に覘きたくなる理由はまさにこの 「ハルカ・エイティ」を読んだからだと思う2006年の takam16でありました。
姫野 カオルコ
ハルカ・エイティ